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聖ボニファチオ殉教者             St. Bonifatius M.       記念日 5月5日


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 この聖人はドイツの使徒と呼ばれる聖ボニファチオ大司教殉教者と異なり、四世紀ローマに生きていた人である。最初は聖人どころか、キリスト信者の名を汚すような罪の生活を送っていたが、後勇ましい殉教によってその一切を償い、以て聖なる痛悔者の群れに加えられる栄誉をになうに至った。

 彼の少年時代については別に知られていない。しかし壮年の頃は財産家アグラエ嬢の会計係を務め、萬に気の利く所から主人の信頼寵愛も殊の外厚かった。その内彼は独身の嬢と越えるべからざる隔ての垣まで乗り越えて、罪を犯すようになり、金に困らぬままに酒池肉林の快楽をほしいままにした。そういうボニファチオのたった一つの取り柄は、生来極めて慈悲深いことで、主人の承諾を得てはその託せられた財産の中から、哀れな人々に施したり、貧しい旅人をもてなしたりしたことも一再ではなかった。
 「幸いなるかな慈悲ある人、彼等は慈悲を得べければなり」(マテオ 5−7)
 主はこの御約束の如く、慈悲ある人には必ず報い給う。かくてアグラエとボニファチオにはわが罪悪を恥ずる恵みを与え給うたのである。即ちアグラエはある時東ローマ帝国に行われた迫害に雄々しくも殉教した人々の話を聞き、享楽と贅沢のみを事としている我が身に思い比べ、冥利の程も恐ろしくなり、痛悔の情にせめられ、ボニファチオにも改心を誓ったから、彼も同じく改過遷善の決心を起こし、殉教者の遺骨がほしいという主人の望みに応じてこれまでの罪滅ぼしにそれを持ち帰るべく出発した。

 彼はその時途中及び殉教地の信者等に施す為、多額の金を与えられたが、主人と別れるに当たり半ば冗談に「しかし人の運命はどうなるか解らない、私自身が殉教して骨になって帰ってくるかもしれませんよ」というと、アグラエは厳しくそれをたしなめたものの、二人ともその言葉が後に実現しようとは、神ならぬ身の知る由もなかったのである。

 さてボニファチオの一行は長途の旅行を終わって無事目指す殉教地の小アジアに着き、聖パウロの生まれ故郷のタルソに宿泊したが、そこは迫害の最も激しい地方で、彼が町の広場に行ってみると、ちょうど総督シンプリチオがキリスト信者を尋問して、残忍にも或いは拷問にかけ、或いは死刑に処しつつある所であった。ボニファチオはしばらく見ている内に信仰のため身命を献げて悔いぬ殉教者の壮烈さに感激し「キリスト信者にこれほどの勇気を与え給う天主は讃美すべきかな!」と叫んで、殉教者たちの傍らにはせより、彼等を捕縛した鎖に接吻し、何くれとなく慰めたり激励した。

 総督はこれを見とがめ、早速捕らえさせて「その方は何処の者で名は何と言う?」と尋ねると、ボニファチオは恐れ気もなくキリスト信者であることを申し立てたから、直ぐに鉄の鈎爪ある鞭で全身を打ち叩かれるなどの責め苦に逢い、果ては剣で斬殺され、栄えある殉教者の列に加わった。

 宿では従者達がしきりに彼の帰りを待ちわびていたが、一向姿が見えないので、一同探しに出かけた所、はからずも広場にその惨死体を発見し、大いに驚きつつも人々から彼の致命の顛末を聞き、それでは他に聖なる殉教者の遺骨を求めるにも及ばずと、ボニファチオの遺骸を引き取ってローマに持ち帰ったのであった。

 アグラエは変わり果てたボニファチオの姿に、出発の際の彼の言葉も思い合わされて、無量の感慨に打たれたが、またその勇ましい殉教の模様を聞いては心嬉しく、礼を厚くして彼の遺骸をローマ近郊のわが所有地に葬り、後その墓の上に一つの聖堂を建てさせ、ねんごろに彼の冥福を祈ってやった。そして自分もボニファチオに負けず劣らず、主の御召しに添わん為に、財産を貧者に施し、余生を慈善と苦行に過ごして痛悔の誠を致したという。


教訓

 本来罪は償いなくしては決して許されるものではない。聖ボニファチオはかってアグラエと罪悪の生活を続けていたが、一度改心の恵みを蒙るや「汝、貧者に慈善の業を行い、以て汝の罪を償え」(ダニエル 4−24)とあるダニエル書の教えに従い、懸命に贖罪に努めたから、罪の赦しを与えられたばかりでなく、殉教の栄冠を受けて聖人と崇められるに至った。我等も慈善の業を天国への途と思い、機会ある毎にこれを為すべきである。